復刻・火野葦平「バタアン半島総攻撃従軍記」
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芥川賞受賞のベストセラー作家が従軍記者として⾃分の⽬で⾒た
フィリピン戦の真実
「バターン死の行進」という言葉を聞いたことがありますか?
フィリピンで捕虜になった米軍兵士を日本軍が炎天下の中120km歩かせ、その移動中に1万~1万7千人の死者を出したというものです。
この惨状はアメリカで「バターン死の行進(マーチ・オブ・デス)」と名づけられて、“日本軍の残虐性”を示す格好の宣伝材料として一気に広まりました。
当時はただでさえ、「リメンバー・パールハーバー(卑怯な真珠湾攻撃を仕掛けてきた日本を許すな)」の
スローガンで反日感情が煽られていたアメリカ…
そこに、火に油を注ぐように「日本人は残虐だ」という印象を与え、「日本人は徹底的に殺す」ことを正当化するアメリカの世論を作られてしまいました。ヘイトの感情さえ生まれれば、対戦国の国民が煮られようが焼かれようが、心は痛みません。
実際に東京大空襲で街を文字どおり焼け野原にして、広島、長崎には人間の所業とは思えない、
原子爆弾を投下して、民間人を、女性も子供も、そして街も、一瞬で消し去りました。
そしてそれは、「正義の報復」だと言われてきました。つまり、「残虐な日本に対する報復だ」と。
しかし、もし「バターン死の行進」がアメリカ軍のプロパガンダだったとしたら…?
本当は日本軍が米軍捕虜を丁重に扱っていたとしたら…?
むしろ米軍捕虜が亡くなった責任はアメリカ軍の側にあったのだとしたら…?
ここでは当時、フィリピンの戦場で従軍記者として付いて回っていた芥川賞受賞作家火野葦平(ひのあしへい)のノンフィクション小説を参考に、当時の様子を一部ご紹介したいと思います…
真珠湾攻撃直後で物資が不足する米軍
昭和17年3月…
マッカーサー率いるアメリカ軍は、日本軍に対し、フィリピンのバターン半島で徹底抗戦の姿勢を見せていた。 だが、このときはまだ真珠湾攻撃による開戦からわずか3ヶ月しか経っていない。
真珠湾攻撃で、ハワイの米軍基地は機能していなかった。 そのため、フィリピンには食料や医療品などの物資が届かない状態が続いていた。 マラリアに感染した兵士を看病することもできなければ、食料も残り一ヶ月分しか残っていないという状況にあった。
すでにフィリピンの米軍には、とても日本軍と戦う力など残っていなかったのである。
「一旦退散しよう」
アメリカ極東陸軍の司令官であるマッカーサーは、オーストラリアへ逃げてしまった。
食料を持たず、マラリアなどの疫病を患った部下の兵士7万人はフィリピンに置き去りにしたまま…
彼ら米軍兵士総勢7万人はそのまま日本軍の捕虜になった。
従軍記者として戦地のこの光景を目の当たりにした火野葦平は次のように記録している。
米兵はいつ尽きるとも知れず、湧き出て来るという感じであった。比島兵(フィリピン兵)もなかに交っていた。彼らは武器を持たず、いずれも腰に水筒をぶら下げ、小さいズックの鞄を持っていた。
私は捕虜の群をながめているうちに、不思議な怒りのようなものが、胸にわいて来るのを覚えた。実はこんなに米兵が居るということは、すこし思いがけぬことであった。
それだけの米兵がいながら、なぜ戦わないのか。
これらの兵隊は、われわれの祖国にいわれのない侮辱を加え、われわれの祖国の存立をさえ脅かそうとした傲慢な国の国民なのだ。
私は米兵の捕虜の波を見ているうちに、それは不純な成りたちによって成立し、
民族の矜持を喪失した国の下水道からながれ出して来る不潔な汚水のような感じを受けた。
自分たちでさえろくに食べられないでいた日本軍に、いきなりその統制下に入った7万の捕虜に
十分な食糧を与えられる余裕があるはずがない。
ましてこれだけの人数を運ぶトラックやガソリンも持っていなかった。
そこで、急遽、サンフェルナンドという120km離れた都市へ捕虜を移送することになった…
という経緯である。
GHQにとっての不都合な真実
確かに移送中に多くの捕虜が亡くなりました。
しかしそれは本当に日本軍に全責任があるものなのでしょうか?
7万人の部下を抱えながら、自分はオーストラリアへ逃亡したマッカーサーには責任はないのでしょうか?
この「バターン死の行進」は、戦後「日本人の残虐性」を誇大宣伝するため、日本軍による捕虜の虐待であったという決めつけが行われ、この捕虜の移送に関わった日本の将校が死刑に処されました。
東京裁判すら開廷していない、昭和21年2月11日の時点で、マニラ米軍事法廷にて、当時の指導者であった本間雅晴(ほんま・まさはる)中将は死刑判決を下されています。
そしてその判事5名は、全員がマッカーサーの部下としてバタアン半島で
本間雅晴中将に降伏して捕虜になっていた軍人…
しかも、訴状は、この裁判のためにしつらえられた事後法[指揮者責任]でした。
これは判決が第一、証拠は二の次の「政治裁判」だと言われても仕方がないのではないでしょうか?
実際、最高裁判事のひとりであるマーフィー判事は、死刑当日、こう述べています。
今日、本間の生命が、法の正当な手続きを無視して奪われる。
正当な手続きを無視した法律的リンチが、今後引き続いてぞくぞく発生するかも知れない。
まさにそのあとの東京裁判での不当な法律的リンチを予見しているんです…
そして奇妙なことに…
その当時を描いた火野葦平のこの本は、戦後の日本人に読まれることはありませんでした…
なぜなら、敗戦した日本にやって来たGHQがこの本を没収したからです。
GHQが没収したのはこの本に限りません。
昭和5年頃から19年頃までの14年間の間に発行され、GHQが「自分たちの占領に不都合だ」と判断した約7700冊が捨てられました。
なぜか?
それはGHQが日本人に「戦争に対する罪悪感」を植え付けるためです。
洗脳するために「GHQに都合の悪い記録は全て消そう」と考えました。
このとき取り上げられ、捨てられた図書を「焚書」と呼びます。
焚書によって、米軍側のプロパガンダだけがあたかも真実として残され、伝承されるようになりました。
火野葦平の消されたノンフィクション小説
『糞尿譚』(1938年)で芥川賞を受賞。
その後『麦と兵隊』(1938年)は大きな評判をよび、『土と兵隊』(1938年)『花と兵隊』(1939年)とあわせた「兵隊3部作」は300万部を超えるベストセラーを記録。
しかし戦後は、「戦犯作家」として戦争責任を厳しく追及され、1948年(昭和23年)から1950年(昭和25年)まで公職追放を受けることになりました。
「国民を戦争に駆り立てた」として罪を着せられたのです。
たしかに火野葦平自身は何を書けば日本軍の検閲に引っかかるかを十分承知していました。
だからあからさまな軍部批判などは作中にありません。
しかし不思議に思いませんか?
GHQは「兵隊3部作」こそ焚書にしませんでしたが、フィリピン戦をありありと描いた「バタアン半島総攻撃従軍記」だけは「焚書」指定し、人々の目に一切触れないように隠そうとしました。
本当に火野葦平が「国民を扇動した戦犯作家」なら全て堂々と公開して、その醜態を「戦後の日本人」に晒した方が良かったのではないでしょうか?
しかしGHQはそうはしませんでした。
GHQが隠そうとしたことこそ「戦前の真実」が隠されている証ではないでしょうか…?
上島さんはGHQがこの本を焚書指定した理由についてこう解説しています。
端的に云えば、日本軍は残虐だった、卑劣だったという「戦後の断罪」に合致しない戦場の実相が描かれているからです。そこには正義を掲げ、精強であるべき米軍に相応しくない姿があり、意外にも強くて人間味溢れる日本軍の姿がありました。
そこでぜひ多くの人に真実を知っていただきたいと思い、この火野葦平の著書
「バタアン半島総攻撃従軍記」の復刻に取り掛かりました。
目次
◆三月十四日(サンフエルナンド)
◆三月十五日(バランタイ河畔)
◆三月十六日(サンフエルナンド)
◆三月十七日(サマル)
◆三月十八日(サマル)
◆三月十九日(バランガ)
◆三月二十日(ブリット高地)
◆三月二十一日(デナルピアン)
◆三月二十二日(サマル)
◆三月二十三日(サマル)
◆三月二十四日(ブリット高地)
◆三月二十五日(オラニ)
◆三月二十六日(マニラ)
◆三月二十七日(サマル)
◆三月二十八日(マニラ)
◆三月二十九日(アボアボ河畔)
◆三月三十日(ブリット高地)
◆三月三十一日(タリサイ河畔)
◆四月一日(タリサイ河畔)
◆四月二日(ブリット高地)
◆四月三日(ブリット高地)
◆四月四日(ブリット高地)
◆四月五日(カトモン河畔)
◆四月六日(カポット台)
◆四月七日(リマイ山)
◆四月八日(イランガン河畔)
◆四月九日(アモ河畔)
◆四月十日(マリベレス港)
◆四月十一日(マリベレス港)