
1960年代半ばのある晴れた日、若きフィル・ナイトは愛車のトランクを開け放ち、陸上競技大会の片隅で数足のランニングシューズを売っていた。その光景は一見地味で、世界的ブランドの創業物語とはほど遠い。しかし彼の頭の中には、大胆な夢と臆病なほど慎重な計画が同居していた。日中はネクタイを締めた会計士、週末はトランク一杯の靴を抱えて顧客を探す販売員──ナイトは本業の安定を手放さないまま、静かに情熱の副業を育て始めていた。
フィル・ナイトの物語は、スタンフォード大学で生まれた一つの大胆な仮説から始まる。1962年、MBA課程に在籍していた彼は、卒業論文で「高品質で低価格の日本製スニーカーを輸入すれば、当時ドイツ勢(アディダスやプーマ)が支配する米国の靴市場を覆せる」と提唱した。というのも、カメラ市場において、ライカやカールツァイスなどのドイツ勢が段々とニコンやキャノンといった日本勢にシェアを奪われていたため、靴でも同じことが起きると予想したのだ。しかし、このアイデアは教授陣からは鼻で笑われてしまう。
それでも、若きナイトの胸には消えない情熱の種が残った。「どうしても試してみたい」──その想いが彼を突き動かす。卒業後の1963年、ナイトは周囲の懐疑をよそに行動を起こす。父親からわずか50ドルを借り受けると、単身日本行きの航空券を手にした。当時26歳、会社もなければ伝手もない。それでも彼は日本の神戸にある小さな靴メーカー「オニツカタイガー」(現アシックス)本社の扉を叩き、自分を米国販売代理店にしてほしいと売り込んだのである。
図々しい飛び込み営業に日本の担当者は面食らったことだろう。それでも交渉は幸運にも実を結び、ナイトは米国西海岸でオニツカタイガー製ランニングシューズの販売権を獲得することに成功した。彼はこの架空の代理店に「ブルーリボン・スポーツ」という社名を即興で名乗っていた。その名刺さえない即席の企業が後にナイキへと繋がっていくとは、当時誰も予想しなかったに違いない。
1964年、ナイトは日本から取り寄せたシューズを持ってアメリカに戻り、本格的に販売を開始した。とはいえ、ブルーリボン・スポーツの船出はささやかなものだった。創業初年度の売上高はわずか80万円程度(*1ドル=100円で計算。以下同様)に過ぎず、利益もたったの年間32万円だったという。
幸い地元オレゴン州の伝説的な陸上コーチ、ビル・バワーマンがこの副業に興味を示し、共同創業者として加わってくれた。バワーマンは製品改良に知恵を貸し、靴の改良点を日本側メーカーに提案するなど、さっそくその職人魂を発揮する。こうした地道な努力が実り、ランニングブームの兆しとともに、ブルーリボン・スポーツの売上は毎年倍増で伸びていった。1968年には売上高1500万円に達し、翌1969年にはついに年商1億円の大台も視野に入るまでに成長する。
陸上選手だったナイトの知識と、バワーマンの靴職人さながらの情熱が徐々に成果を上げ始めていた。しかし、この頃になってもフィル・ナイトはまだ本業の会計士の職を辞めていなかった。平日は会計事務所で働き、生計を安定させながら、週末や早朝・夜間に副業のシューズ販売に精を出す日々が続いたのだ。
ナイト自身、「創業当時、新しく起こした会社の27社中26社が失敗する時代だった」と振り返る。この高い失敗率を目の当たりにしていたからこそ、「石橋を叩いて渡る」ような慎重さでリスクを抑え、まずは副業として着実にビジネスを育てる戦略を選んだのだ。さらには、質素な生活を送ることで、自身の生活費をわずか年間180万円に抑えたという。安全網としての本業収入に支えられ、「臆病」と揶揄されるほど石橋を叩きつつも、ナイトは着実に副業を伸ばしていった。
彼が会計士の安定職を辞めたのは、創業から7年が経った1971年。それまで副業に捧げてきた情熱を、本格的に自らの会社に注ぐとやっと決断した。この時には、年商は1億3000万円にもなっていた。逆に言えば、年商1億円を超えるまでは、決して安定収入を手放さなかったのだ。
実は、ナイトが会計士を辞めたこの年は、ナイトの「副業」はついに大輪の花を咲かせることとなる。日本での商談時に思いつきで生まれた「ブルーリボン・スポーツ」から、正式に現在の社名「NIKE」に改名。さらに、それまで靴の販売代理店にすぎなかった同社が、自社ブランドの靴を開発。翌1972年に、誕生したばかりのナイキの新製品はオレゴン州ユージーンで開かれたオリンピック予選会で華々しくデビューを飾った。さらに、ミュンヘン五輪で米代表選手が着用。
これを機にブランドの知名度は上昇し、翌1973年には年間販売高が2億円を突破。以後も業績はうなぎ登りに伸び、ついに1980年、ナイキ社は株式公開を果たす。同年、長らく目標としてきたドイツのアディダス社を売上高で追い抜き、
米国スポーツシューズ市場のトップに躍り出た。副業から初めて16年、会計士としての日々から数えれば、実に18年越しで、フィル・ナイトは、自らのビジネスを揺るぎない成功へと導いたのだ。
いまやナイキの売上高は、卒業論文で目標としていたアディダスの約 2 倍、プーマの 5 倍超となった。こうして、売上・ブランド価値ともに世界最大級──まさにスポーツビジネスの“王者”となった…
副業から始めて、世界一のスポーツブランドを築いた彼から学べることはたくさんあります。例えば...
・単身、日本にいき、飛び込みで販売代理店契約をとった行動力
・毎週末、陸上競技場に通い、靴を売り続けた執念深さ
・オリンピック選手に自社製品を使ってもらうマーケティングスキル
これらがナイキの成功要因の一つだったことは間違いないでしょう。そして、こういったいかにも”起業家らしい”側面は、人々の心を掴みます。そのため、テレビや雑誌、ハリウッド映画は、華やかなポイントだけを集めて、一発逆転ストーリーを描きます。それによって、多くの人は、「起業家とは、リスクを恐れず、夢のためなら勝ち目のない勝負にも果敢に挑戦する人だ。そして、その賭けに勝った人だけが成功者になれる」このように考えます。
こう語るのは、これまで50業種以上で起業を成功させてきた大富豪マーク・フォード。彼は40年以上の起業家人生であらゆる業界で年商1億円越えのビジネスを創ってきました。そして今では、年商10億円の会社を10社、年商50億円の会社を2社、年商100億円の会社を2社保有しています。最も大きなものは、年商1500億円にまで成長させました。そんな彼は、このように指摘します…
「経験から言わせてもらえば、起業で成功する方法は、前代未聞のビジネスアイデアを思いつき、全財産を注ぎ込むことではない。むしろ、フィリップ・ナイトのようにゆっくりと発進することだ。ビジネスに必要となる資金や人材といったリソースを少しずつ集め、人脈を作り、ビジネスプランを練り上げることであり、立ち上げたビジネスが十分利益をあげ、給料がなくてもやっていけるようになるまで本業を辞めないことである」
では、なぜ、これほど慎重に起業するのか?
その理由は、起業はほんのわずかな過ちで失敗に追い込まれて倒産してしまうからだと言います。実際、日経ビジネスしで紹介されたデータによると、ベンチャー起業の生存率は創業から5年後は15.0%、10年後は6.3%、20年後はなんと0.3%です。つまり、起業から10年以内に、9割以上が無くなっているんです。
では、どうすれば、そんな環境で起業を成功させることができるのか?
それは、リスクを徹底的にコントロールすることです。つまり、ナイキ創業者フィル・ナイトのように、副業から始め、臆病すぎるほど慎重に進めることで、思わぬ過ちで倒産するリスクなくしていくことです。
では、具体的な、何をどの順序で取り組めばいいのか?それをまとめたのが、書籍「起業の超プロが実践する絶対に失敗しないための10の技術 臆病者のための科学的起業法」です。